玄侑宗久著『禅的生活』を読んで

この本では、著者の禅に対する思考や理解を文献や例え話、飼い猫などを通して語られている。
 著者はまず、混沌――人の理性的で無い部分、つまり動物的な脳や無意識を意識によってある程度コントロール出来ると説いた。また、心も意識化出来るという。感情、つまり仏教における苦しみの根源『迷い』『執着』、禅における『妄想』をコントロール出来ると語ったのである。
 道元禅師の師は、本来の心を覆う残像や様々な思いの束縛が抜ける事を『身心脱落』と表現した。本来の心とは『仏心』や『仏性』、『法性』や『本来の面目』『無位の真人』『無心』『廓然無聖』等で表現されるという。そして本来の心、明鏡止水に至ることが禅僧の目標であるとされる。物事を『ありのままに』感じ、『あるがままに』生きる事だろう。そして『知足』を行う。『知足』とは自分の現状を完全に肯定することだ。禅では、これを悟りだと理解する。
 また、禅においては『無聖』『非仏』『仏を殺せ』などという言葉も存在する。これは『金屑貴しと雖も、眼に入れれば翳となる』という『臨在録』からの言葉を使うことによって理解出来るだろう。「貴重な黄金の屑といえども、眼に入れば目がかすんでしまう」という意だ。仏陀や達磨は偉大な先人だが、拝んで有難がるような『象徴』ではなく、仏道を志す人間にとってはいつか追いついて隣を歩くべき『仲間』なのだと主張するのだ。
 禅は、あまりにも深く自由な宗教である。『悟り』という言葉で表現出来ないものを表現しようとしていることで、外部からは非常に理解されがたい宗教であると思う。過去に『禅天魔と表現されたように、一種異様な宗教形態とも言えるかもしれない。
 禅は確かに宗教であるが、自らを拠り所に自らを救う、哲学に近いもののように思えた。そしてこの思想は、仏陀が持っていた考えそのものに近いのではないだろうか。
 仏陀はある国の王子として生まれつき、まず快楽を浴びるように感じた。そしてそれを止めた後、悟りを求めて苦行をする。しかしそれでは欲望を取り除くことは出来ても、幸福を得ることは出来なかったらしい。そして最後に菩提樹の根元で座禅を行い、ついに悟ったのだと言う。
 幼少の頃の逸話や伝説を聞くと、仏陀は神格化され、選ばれた人間だったように思える。それはまるでキリストのように。しかし自分が主張したいのは、仏陀もただの人間だったのではないかということである。
 仏陀はまず、生を大いに楽しんだのだろう。しかし、強い快楽に慣れれば、その後に残るのは『飽き』であるだろう。そして次に、当時としては流行の苦行を行うが、三年これを続けてもまだ悟れない。そして座禅に至り、ようやく悟りを得る。これと同じように、禅僧もまた、人生の喜びと悲しみを受けて座禅に至り、そして悟りを目指すのではないだろうか。
『三時説』によれば、仏の死後何百年か経つと人は悟りを得ることが出来なくなり、さらに年を経ることで悟りを得ようとする修行者すら消えるという。後に残るのは仏の教えだけだ、という考えだ。
 しかし、これは仏陀が言った言葉では無いように思う。また悟れる人間と悟れない人間がいるわけでもなく、全ての人が悟りを得られるのではないだろうか。もちろん、一部例外はあるにしろ。
 西洋やイスラム圏では、人が神になるような事は無い。例外としては神の子であるキリストくらいだろうか。しかし日本や中国などのアニミズム的な宗教感覚を持つ文化の中では、人の他にもさまざまなものが神として奉られている。禅とはそのような宗教的土壌から生まれたものだろう。そして何より特殊なのは、誰にでも悟ることが出来ることだ。人種の差別すらなく。
 禅は誰にでも門戸を開く。しかし同時に外からは理解することが出来ない。外から理解することが出来ないというのは、神性をもつものに良くある事柄でもあるだろう。そして禅を行うというのは、一種シャーマンなどにも似ている。自らを神に近づけることで神とコミュニケーションをとる、という手法だ。それならば、あるいは禅そのものが、宗教における『聖なるもの』だと言えるのでは無いだろうか。








 自分で自分のブログを見て、最近馬鹿なことしか書いて無いから真面目なことをかこうとかそんなんでは断じて無い。社員さんにブログのことを話してしまい、まじめなことを書いてごまかそうとかでも無い。自分のパソコンにある真面目なものが宗教学のレポートしかなくてそれを流用とか損なんするはず無いじゃないですか。ええ。