果たして真面目な話なのかどうか。

 自己と二面性についての考察と雑文。
 さて、ここにAという人物を置こう。あなた方は、Aの自己についてどのように定義するだろうか?
 ここでもっともシンプルな考えと思われるのは『Aの肉体そのものがAの自己である』という、至極当たり前かつなんだか投げ槍気味なものである。シンプルな論法は物事の観察を簡単にしてしまえる一方、間違っていた場合真相にはかすりもしないというステキな結果が待っている。
 さて、では複雑な論法がどういうものと考えられるか。自分はフィーリング的な感じで『Aの肉体、及びAという人物に接したことがある人物全ての、Aへの認識がAの自己である』とAという言葉を多用し過ぎたかんなり広義且つ暴論な感じの事を考えてる訳だが、しかしこれは他者の意識というあやふやでAにはどうする事も出来ないものをAの自己と認識する、という中々に夢が無くどうしようもない論法になる。
 逆の方向に走ってみるならば『Aの自己はあくまでAの人格であり、肉体や他者の認識は関係無い』とかなるかもしれませんが、しかし、これはこれで暴論で、人は他者から影響を受け影響を与えながら人格を形成していくものだ。つまり人の自己とは自らが生まれ持った資質、及び生まれたときから死ぬまでの環境が形作るものである。
 つまり自己を定義する要素とは、Aの肉体、Aの精神、他者のAへの認識(=他者が受けたAからの影響)、Aの他者への認識(=Aが受けた他者からの影響)であると思われる。しかし筆者が足りない頭でのんべんだらりと考えたものだから恐らく間違っている。
 例えばAの精神とは、宗教を信じないのなら脳、つまりAの肉体の一部である電気信号やらホルモンバランスやら脳内麻薬等が混ざり合ったものから生じている。脳、脊椎、末端神経などが精神だろう。あくまでも無宗教、お化けなんていないさの論法を信じるなら、だが。
 しかしここにまた問題が生じる。
 ぶっちゃけ精神なんていうものは外部からの刺激で簡単に掻き乱されるもので、例えば、あなたが殴られたとき当然痛いし、とある注射を打ち込めば最高にhigh! って感じになる。ちなみに、highと打ち込むときにうっかりhige! と誤打ってしまったのは秘密である。
 まあ要約すればAの精神と肉体は切っても切ることが出来ず、てか切ったら死ぬし、外部からの刺激も完全にシャットアウトするのは難しい。三竦みな感じである。嘘である。さらにAが他者の影響のみを受け、他者がAの影響を受けないのは不可能であり、殴った拳は意外に痛い。ちなみにここにもう一つ例を書いたのだがセクハラチックになってしまったので載せるのは控えよう。
 さらにAの精神も分解すれば、えーとなんだっけ、ほらスーパーエゴとかハイパーエゴとかそんな感じの、えーと、ああそう、エスだったっけか。いやクスリじゃなくて。
 ネットで調べたところ、フロイトさんの見解らしいです。『自我』『超自我』『エス』。かんなり適当に書き表すのなら『自我=理性、人間の社会的・理性的な部分、ペルソナ』『超自我=人の良心、自我の管制を司る部分、ペルソナの作成者』『エス=欲求、理性無く純粋な快楽を望む、仮面の下』的な。いや門前の小僧がやってる解釈なんで信じられてしまうと本当に心苦しいので皆さん信じないで下さい。いや本当に。マジで。それっぽいことをそれっぽく言ってるだけなんで。
 さておき以上の事を適当にまとめるなら、Aの自己とはA及びAの肉体、精神、及びAを取り巻く全ての外的刺激と切り離すことが不可能であるとそんな感じな訳である。多分。最後の一言で思いっきり信頼性が落ちた。自分もこの言葉をよく使っているので、恐らく自分の信頼性もガタ落ちである。いいのかそれで。
 

一旦筆を置きます。続きは書く…………のか…………?