丸い窓の向こうに・転

まぁ転っていうか終わりの始まりというか。
推敲していない小説を載せるという羞恥プレイ。








――翔太、PART 02



 詰まるところ自分は何を望んでいるのかと、そんなことを考えてしまう。
「はいー、ホームルームここまでー。冬休みだからってチョーシくれてんじゃねーぞー。盗んだバイクで走り出すんじゃねー」
「せんせー俺達十六から十七歳ですー」
「ていうか終業式がありますせんせー」
「え、終業式って自由出席じゃねーの? アタシん頃はとりあえず繁華街ハシッてたんだけどー?」
「せんせー、ウチは場末の不良校じゃないんですけどー」
「というか今時そんな学校ありませんー」
「クッソ、補習すらさせないようなクソ学生どもが……! なんで予習なんかしてんだよ!! 馬鹿だろ!?」
「せんせー教師の台詞じゃありませんー」
「ていうか先生どうやって教師になったんですか……?」
「……チクショー!! テメェらなんて大学に進学しちまえばいいんだー!」
 捨て台詞と共に教師が走り出し、それでホームルームは終わりらしかった。廊下からは「校長の話を録音して着信にしちまえー!!」だとか「廊下を走らない!」だとかが聞こえてくる。大丈夫だろうかウチの担任。そしてこれからの受験。
 放課後の遊びに誘うクラスメイトの声と、それに伴う椅子の音が聞こえてくる。教室のすぐそばにある自分の席からは真っ直ぐ帰っていく生徒達がよく見える。一人で帰る人も、徒党を組んで帰っていく人もまた、何かに期待するような、安堵するような表情をして扉をくぐる。
 そこから目を逸らし、俺は窓を見た。
 まだ日は落ちてはいない。けれど冬の早い落日はもうすぐそばまで迫っていて、色は僅かに黄色がかっている。
 俺の席は廊下側の端で、そこから見れば教室に残り雑談をしている女の子達がいる。立ったままで今日のこれからを話していたり、手近な椅子を手繰り寄せて友人の話を聞いたりと様々だ。
 そこに今駆け寄ったのは、真昼だった。今日は顧問の教師が出ていないため自主練習になっていた。いつもは部活に忙しく参加できないため、今日は少し遅刻してクラスメイトと親睦を深めるつもりなのだろう。主将自身が遅刻するのは問題なのだろうが、それはきっと誰かに頼んであるに違いない。真昼はそういうところで如才ない。
 ……机に座り込んだ様子を見る限り、少しだけ話して部活に行くつもりなのだろうけれど。
 少し、話したいことがあった。
 女の子ばかりの集団に参加するのは気が引けるので、机で寝たフリでもしよう。
 きっと、真昼が起こしてくれると思うから。



「何を寝てるんだ翔太ァ――!! バケツもって廊下にたっとれぇーい!!」
 かけられた声に体がビクリと反応し、慌てて身体を起こす前に台詞後半が水を差した。
「……いや、今時バケツはないと思うぞ」
「じゃあペットボトルでどうよ。水満タンで」
「ダイエットかよ……」
 腕を組み、それを枕にしたままツッコむ。
「ふっ」
 耳に息をかけられた。
「…………っ!? 何を!?」
 慌てて身体を起こし、力の限り真昼から身体を逃がす。頭を壁にぶつけたのは些細な事だ。
「いや、漫画にこういうシチュエーションあったから」
「何を読んでるんだお前は……」
「んー? 友達から借りた、やけに男の子が色っぽい漫画を」
 何か間違っているのではないでしょうか。
「ちなみにさっきのシチュエーション、息を吹いたのも吹かれたのも男子な」
「想像しただけで気持ち悪いわ!」
 ああ……真昼が何か得体の知れないものに足を踏み入れようとしている……。
「ったく、子供じゃないんだからそんなことするなよ……誰も見てなかったからいいものを……」
「え?」
 少し考え、背後を親指で指しながら真昼が一歩身体をずらす。
 ……見ていらっしゃる……。
 何かニヤニヤしながら女子の集団がこちらをご覧になってらっしゃる……。
「何か駄目だった?」
「ああ、うん、俺の社会性とかがな……」
「?」
 ああ、真昼はこういう人間だった。
 女子達は肘から先をこちらに振りながら離れていく。……凄くいやらしい表情を浮かべて。台詞をつけるなら「じゃ、後は若い二人でー」とかそんな感じ。
「じゃ、豆腐の角に頭ぶつける前に退散するね〜」
 似たようなものだった。
 あと馬な。
「馬の角に頭をぶつける?」
「そんな生物がいたとは知らなかったな」
 ユニコーン
「ほら、そろそろ部活行かないと皆ストレッチ終っちゃうよー?」
「ああ……」
 スポーツバックを肩にかけた真昼を追うように、自分も床においていた鞄を担ぎ立ち上がる。
「自手練だし、男女で試合でもするかー?」
「駄目だな。刺激が強すぎる」
 刺激? と首をかしげ、真昼がこちらを振り向いた。
 ここしかないと、そう思って真昼の腕を掴んだ。
「……翔太?」
「今日も……、公園、行くのか?」
 ヤマナイのところに、とは言えなかった。心がその言葉に、触れられないでいる。
「今日かー……えっと、その、告白しちゃったから、ね。ちょっち気まずいかな」
「そうか……」
「何、伝言か何か?」
「……いや、頼まれてたエロ本買えなくてな。代わりに俺のオススメを渡そうかと思ったんだが」
「あっ、あの人はエロい本なんて読まないよ!? それにうんちもしない!」
「……今俺、お前の思い違いをどう修正しようか悩んでるよ……」
 それは確かに疑問だったけれど。
 トイレとか、あるんだろうか。
 一つ、煙を吐くように息をついた。
 掴んでいた腕を、放す。
「……さっきの、男女混合試合な」
「?」
「女子がいいんだったら考えるぞ」
「そう?」
「ああ、確実に嫌がられるだろうけどな」
「何でー?」
 セクハラされるから、とは口にせず、真昼の先を行って扉をくぐった。背後からは上履きの足音が聞こえてくる。
 結局、何も、言えなかった。
 ふと煙草を吸いたくなって、俺は口元に手を触れた。



 銜えた煙草に火を付けた。
 歩きながら灯すライターの火は酷く揺らぎ、消えないうちにと煙草で吸った。
 暗く人通りのない道は未成年の喫煙に向いた場所だ。こんなところを巡回する警官もいない、繁華街にたむろって路地裏で吸うよりもよほど賢い選択だと思う。
 ……煙草を吸うこと自体は、とても賢いとは言えないけど。
 風はなく、歩く道も静かなものだった。
 冬になってしまったこの場所に虫の声は絶えている。きっと死んでしまったのだろう。聞こえてくるのは自分の靴音、それに僅かに混じる枯葉が砕けていく音。煙草のじりじりと焼ける音も聞こえた。詰まるところそれが、一人でいるということなのだろう。
 それでも鈴の音が欲しいとは、思えなかったけど。
「……何してんだろうな……俺……」
 呟いてみても答えは出ず、そんな意味のない言葉なのに、森にはよく通った。
 ここしばらく、……というか、中学に入った頃からここにはあまり来ていなかった。当然といえば当然だろう、女子と一緒に過ごすのが恥ずかしいと思うような年齢でもあったし、それに、自分の好きな人がはしゃいでいるのを柔らかく受け止められるほど器用な人間でもなかった。見ていればそれなりに幸せだった、けれど、次の瞬間に絵の具をぶちまけたような濁った心を自覚してしまう。
 だからだろう、その時の自分は半ば真昼を避けるように教室にいた。それでもずっと同じクラスだったのはいいのか悪いのか。ぼんやりと真昼を見て、なのに会話する事を避けていた。
 今の自分たちの関係が良好なのは偏に真昼のおかげだと思う。こちらが避けていても、気付けば真昼は隣にいた気がする。俺の襟首を掴んで隣に立たせるような、そんな強引さで関係を保ってくれた。
 ペンを握ったまま舟を漕ぐ真昼を、遠くから見ているのが好きだった。
 無理矢理真昼の友達に混ぜられ、笑って馬鹿をする真昼を一歩引いてみるのが好きだった。中学時代俺は野球部で、それでも同じグラウンドで真昼がゴールを決めるのも、人のまばらな登下校路で鉢合わせするのも、教師まで巻き込んで何か企むように笑っているのも、全て見ていて、好きだった。
 高校でハンドボールに転向したのも、考えてみれば馬鹿馬鹿しい話だった。野球部が弱小だからと言い訳しても、結局、真昼目当てでしかなかった。それなりに自分だって大人になって、諦めがついて、ヤマナイの話も笑いながら聞ける様になっていた。
 ――なのに、なんでこんなに、最低の気分なんだろうか。
 膝から崩れ落ちそうになる。歩く事でそれを抑えて、喉からこみ上げた何かを飲み下す。
 ――自分はつまり、おこぼれを望んでいたんだ。
 あんな顔すら分からない人間と、上手くいく筈がないことを知っていた。これから成長するにつれて真昼もそれを知っていくと期待していた。ずっと傍にいればこちらに傾くだろうと、そんな汚い打算にすがって生きていた。諦めたのではなく、ただ、いつか自分のことを好いてくれるだろうと、そんな計算に妥協したのだ。恋愛なんて素晴しいものじゃない、その前の恋という段階ですら、こんなにも生臭い匂いをしている。きっと、腸の匂いに似たものだ。そんなものを抱えていたことに気付かず、自分は真昼の隣を歩いていた。
 思考はまとまらない。理性は追いつかない。情動すら言葉にならず、色のついた煙のように口から零れていこうとする。
 どうしていいか分からずに、どうにかなってくれとだけ、願っていた。
 ……ああ。自分からあの言葉を聞いたときの月夜は、こんな気分だったのだろうか。だとしたら自分は最悪なのだろう。傷の痛みに耐え切れず、同じ傷を押し付けた。
 ……次に会ったときどんな顔をすればいいのか、分からない。
 けれど会いたいとも、少し思う。
 詰まるところ今の自分は誰かに全てを話してしまいたいのだ。その相手が見つからず、だから、こうして。
 公園への道を、歩いている。



 煙草は森の木々で押し消した。手元に残った吸殻は、少し悩んでポケットに入れた。
「あれ、翔太? 珍しいね」
 小屋まで数歩と言ったところで声をかけられる。
「……ああ」
「どうしたの? 真昼も……来てないみたいだし」
「頼まれたエロ本持ってきた」
「あ、ありがとう――って頼んでないよ! おかしいよ翔太!?」
「いらないのか?」
「……参考までに、どんなジャンルかを……」
 読みたいのか。
「お前が読むんじゃねぇよ。これは俺みたいな寂しい男が読むもんだ」
「自分から振ったくせに!?」
 というか、普段からエロ本を持ち歩くほど俺変態じゃない。
「……それで。今日は何しに来たの?」
 声が、僅かに低く、聞こえた。
 それは真昼たちが聞くことの無い声で、だからと言って嬉しくなる種類のものでもなかった。強いて言えば警戒だろう、敵意とは似て非なる声に、自然と声を低くする。
「座ったら、どうかな。立ち話もなんだし。この前の続き、って事でいいのかな?」
「いい。楽しい話をしにきた訳でもないしな」
 一歩、二歩。僅かに近づいて穴を見下した。それは手を繋ぐ距離じゃない。相手の手が届かない場所で、言葉だけを突きつける距離だ。座る事はしたくなかった。それは背中を見せる事で、顔を見せない事だったから。
「……真昼のこと、どうするつもりなんだ? 知ってるんだろ」
 真昼だけじゃない。月夜だって……俺だって。
「どうするつもり……って言われてもね。僕は今のままであればいいって、そう願ってる……違うな、そう期待しているだけだよ。それはこの前に話した事だ。そして、僕は翔太にお願いしてるだけ。ただ――」
 ――今のままであるように、と。
 そんな願いを口にした。
 まるで遊ばれているようだった。こいつは全てを知っていながら、そんなことを願うのだ。変わらないことなんて何も無いのに、幸せなんてすぐに終ってしまうのに。
 それを一番知っているのは、お前の筈なのに。
 どうしてそんな事を俺に願うのか――
「……翔太は、どうする?」
「俺は、」
 ――どうするんだろうか。
 今の状況は俺にとって辛いものだ。月夜もだろう。そして、これからの状況は決して上手くいかないことを知っている。誰もが上手くいかないことを、知っている。
 けれど昔は、子供の頃はここが好きだったように思う――今はもう歪んでしまったけれど。子供のときは、確かに、この非日常の庭で遊んでいたのだ。俺は――僕は、このおかしな日常が好きだった――。
「翔太、どうする?」
「俺、は…………」
 どうすればいいんだろうか。
「いや、その話じゃなくてね、誰か来たみたい」
「……え?」
「音からすると月夜かな――いや、真昼か。真昼は枝を手で押してあるくからね。もうすぐ来ると思うけど、鉢合わせしていいの?」
「それは……まずい」
「じゃあ、小屋の裏手にでも回りなよ」
「……そうさせて貰う」
 この丸太小屋は木々に囲まれている――ようで、実は少し違っていた。小屋の隣は木々が壁のように密集しているが、小屋の丁度真裏、その辺りだけ僅かに場所が空いている。……子供の頃、虫取りの時に知ったものだ。真昼や月夜は知らないだろうし、知っていてもここまでは来ないだろう。
 木々の間に身体を滑り込ませた。昔より成長してしまったことを、こんなときに感じてしまう。
 小屋の裏手はすぐそこにある。
 この距離なら会話が聞こえてしまう。虫の声があれば、風でも吹けば、それは掻き消えてしまうものだろうに。
 なのに、耳を塞ぐ事は出来そうに無かった。















――真昼、PART 02



「……会いに、きちゃった」
 珍しくヤマナイは挨拶をしてくれなくて、だからあたしは耐え切れずにこんなことを言った。
 ……何も悪くないはずなのにどこか後ろめたいのは、きっとこの前がああだったからだ。
『……あたし、ヤマナイが好きだ』
『あ……』
『……好き、です。好き……なの。……好き』
『え、あ……』
『……あ、いやいやいやいやこんな事を言われても困るよね!? そうだよね!? 返事、返事はそう、あたし今度旅行行くから! だから、ね、返事はその後で!』
 と、言い逃げしてしまったのだ。それはもう凄いダッシュで。ガンガンに。その日答えてもらうつもりだったのに。
 ――うわぁもうなんか駄目だよあたし……! グズグズじゃん! グダグダじゃん! 予行練習もしたじゃん恥ずかしかったけどさぁ!
「真昼、どうしたの? いきなり頭抱えてうずくまって」
「うん……恥ずかしくって死にそう……」
 って、本人目の前にして恥ずかしがってどうするよ! いやそりゃ目の前だからこそだけど! でもバレバレじゃんさぁ!
「どうしたの?」
 立ち上がって意味も無くお尻を払い、さらっと前髪をかきあげてみる。前髪はさらっさらである。
「ホラ、なんでもないよ? ビンビンだよ!?」
「その台詞はどうかと思うんだ……」
「?」
「とりあえず、死なないほうが楽しいと思うよ?」
「うん……」
 そりゃあそうだろう。
「それで、……今日は、この前の件について、でいいのかな」
「それはっ、そのっ、」
「ごめんね、その……そう、まだ答えが決まってないんだ。だからもう少し待ってもらえるかな」
 まだ心の準備が出来ていないからと返す前に、そんな言葉を重ねられた。なんだか、釈然としない気分。……それは自分でも望んでいた筈なのに。引き伸ばされているような、誤魔化されているような、そんな感触がある。
 けれどそれでも、期待していた流れには頷くしかない。声を出すのも気が引けて、首の動きだけでそれを示した。
「じゃあ、何か話してよ。最近真昼来てくれなかったから詰まらなかったんだ。僕、真昼の話、好きだから」
「っ、そっ、それじゃね、今日の翔太の話なんだけど――」
 なんて、あたしは話し始める。
 そんなふうに言われただけで尻尾を振るように機嫌のよくなるあたしが、本当に安上がりだと思いながら、それでも調子よく話し出した。























――翔太、PART 03



「じゃ、そろそろ行くねー」
 真昼のそんな声で会話が終った。ヤマナイの返す言葉は聞こえず、靴底と砂の擦れる音だけ微かに耳に触れる。振り向いたのだろうか、その音が変調し、止まる。
「それじゃあねー!」
 先程より遠いはずなのに大きな声。どう返したのか気になった。
 また、砂を踏む音。
 リズム良く歩いて、また、靴底が半回転する音。
「……、また、ねー!!」
 遠くから聞こえる大きな声だ。公園の端、入り口から掛けている声。ここですら聞こえる距離は、けれどヤマナイの声が届かない距離で。
 この場所ではヤマナイの声が聞こえない。
 聞きたくないはずなのに、その声がどんなものかと気になってしまう。
 それはきっと、誰にも聞こえていない声だろうから。
 ……ああ、駄目だ、心のどこかが感傷的になってしまっている。
 木の枝と一緒に何かを振り払おうと腕を動かす。草を踏む音すら過敏に聞こえる。真昼に聞こえてやしないかと心配してしまうのは、きっと真昼に気付いてほしかったからだ。
 行きと同じ道を辿って公園に出た。丸太小屋に手をついて前に回りこむ。ずっと握り締めていたからだろう、湿った掌に木肌のクズが張り付く。気にせずに、撫でるように触れた。
「あ、翔太、まだいたんだ」
「まだいるよ、そりゃ」
 あの森で歩けば真昼に気付かれていただろうから、とは言わない。
「……聞いてた?」
「真昼の声だけな」
 ヤマナイの声は常にあの中でこもっていて、穴から漏れるのは反響に混じった細い声だ。
 きっと、ここにしか届かない声。
「そっか、いやぁ、まさか翔太が学校でそんなにモテモテだったとは……………………男に」
「ねぇよ」
「え、でもラブレター貰ったんだよね? 登校中、出会いがしらに手渡しで………………男に」
「ちゃんと丁重にお断りしたわ!」
「ほらほらー、そんなこと言って、まんざらでもないんだよね?」
「…………なぁ、穴から手ぇ引っ込めてくれるか?」
「いいけど……なんで?」
 肘まで突き出していた腕――多分先ほどまで真昼に手を振っていたんだろう――それを、ずるりと内に引いた。
 空いた穴に腕を滑り込ませる。
「うわぁ!?」
 穴をふさがれたからか声は一際小さくなり、それを無視して中を探る。襟首のあたりなのだろう、ボタンと、その為に重ねられた布地が手の感触で分かる。指紋に触れるそれは当たり前に世間にあるものだ。柔らかで、毛羽立ちのない繊細な触り心地。人の着る、ただの服。
「……なぁ、片思いの人間にそーゆーこと言わないでくれるか?」
「ごめんね、怒ってる?」
 当たり前のように。
 感触は確かに人のそれだ。こんな森の奥、誰も来ない公園の、丸太小屋の奥に閉じ込められている、それでもただの人。不思議だなんて言葉の向こうにいる人間。
 こんなものに、惹きつけられないわけがあるのだろうかあるのだろうか――
「……翔太、謝るからさ、手を――ってなんで引っ張るのさ」
「いや、つい癪に障って」
「なにがさ! うわぁ、張り付く、張り付くー!!」
「……ひっぱったらお前、飛び出てきそうだよな」
「僕を一体なんだと思ってるの!?」
「……なんとなく、どろっとしてそう……」
「何がー!?」
 結局、シャツを掴んだ拳ではその穴を抜けることは出来なかった。手放し、抜く。
「……俺、そろそろ行くわ」
「ん……随分、あっさりしてるんだね」
「男同士で粘着してたら気持ち悪いだろ」
 粒の細かな砂を擦るように歩き、ポケットに手を入れる。中にはシガーボックス、それに安物のライター、糸くずや古いレシート。まとめて引っ張り出して、要らないものをそこに落とした。
 蓋を開ける。振って数本を取り出し、口に銜える。
 後姿で左手を振った。ライターを擦り、火を灯す。
 背後で手を振られているんじゃないかと思い、けれど振り返りはせず、そのまま歩いて森をくぐった。

――月夜、PART 06



 あれはそう、小学校の高学年だっただろうか。一際暑い年の夏、その終わり、長期の休日が過ぎてしまおうとしていたとき。
 私が好きという感情を知る前の頃、真昼の隣にまだ、まっすぐ立っていられた時間の中。
 そう、祭の日だった。夏の終わりを惜しみ、秋の訪れを祝うそれはこの土地に細々と残るものだった。いつもささやかに行われていたそれはその年に限って多くの人が集まっていた。
 今はもう行けないその祭の日に、私は初めて、彼と出会うことが出来たのだと思う――




「じゃ、六時にここで集合ねー!!」
 思えば、こうやって考える追憶の多くは真昼の声から始まっていた。
「それじゃあ、まっぴー、後でねー!」
 あれ、私、真昼のことをこんな風に呼んだことあったんだ……。
 はしゃいでいただけなのかもしれないし、あるいは、子供の頃はずっとそう読んでいたのかもしれない。まぁいい、どうせ思い出すことすら出来ない頃の話だ。
 時間になり家から出てみれば、真昼は少しお洒落をしてそこにいた。翔太朗はいつも通りに動きやすい格好で、私はといえば、母の趣味で浴衣を着せられていた。夏の夜に過ごしやすい格好ではあるけれど、ウエストは締め付けられ、所々に綿は入れられと酷く窮屈な格好だった。その頃から長かった髪は複雑な形でまとめられ、一度崩されてしまえば戻せそうにもなかった。
「つっきー!? すげぇー! お人形さんみたい!」
「ほら、そろそろ行くぞー」
 やけにはしゃぐ真昼と、淡白な翔太朗の反応が印象的だった。手を引かれても真昼はこちらを見ていて、ゆっくりと引き摺られていく。さりげなく手を握っているのを見ると、きっとこの頃から好きだったのだろう。
 歩く道は、その頃いつも通っていた道。公園へと繋がっている道だ。その先にある神社がまつりの会場だ。今年は絶対に行かないといけないと、そんな事を言っていた。
 今年でこの祭は終わりだと。
 この町はもう衰退していた。私たちの家がある新興住宅地の計画も途中で果て、売れない新居が野ざらしにされていた。値段はどんどんと低くなっているらしい。私の家族で、最後だったのだ。
 そんな中で祭りは規模を縮小し、神主の居なくなる今年を期に終えてしまうらしかった。祭が終わりといわれてもいまいち実感が無く、また他の娯楽も終ったから大した未練もなかった。
 けれど、大人にとっての終わりとは子供よりはるかに重い意味を持つのだろう。考えてみれば当然だ、大人は子供より多くの終わりを体験し、そして大人になっていったものだから。子供には終わりよりもはるかに「次」が多い。終わりが少ないということは一つひとつの終わりが大きな意味を持つということだけれど、それでも、次々に新しいものが押し寄せるのだ。それがきっと、大人と子供の違いなのだろう。
 私は二人の後を追った。
 何も知らずに、今日を楽しみに行ったのだ。
 その時は、きっとそれでよかったのだと思う。



 おめんに籤引、射的に輪投げ。形抜きもあればさかなすくいもあった。けれどやっぱり食べ物屋だろう。氷り屋、串かつ、じゃがバター。りんごあめ水飴飴細工にわたあめ。貰ったお小遣いには限りがあった。だから、出来る限り吟味しなくてはならない。
 ……それと、私が我慢できるかは問題が別かもしれなかった。
 履かされた下駄の音。からんころんと大きく響いた。
「あそこ! あそこのクレープ屋さん、パリの味だって!」
「お面の種類が古っ、古ーっ!! でも逆に面白い!?」
「数字合せって何だー!?」
「ばななチョコー!!」
「ブルーハワイって何味?」
「ブルーハワイ味じゃないの?」
 ありていに言って、はしゃいでいたんだと思う。
 普段は遊べない夜という時間帯、安っぽさに明るく彩られ、古い笛の音と太鼓や、良くは知らない学期の音がスピーカーから流れてくる。
 子供もいつもより多かったけれど、なにより大人の姿が多かった気がする。端で酒を飲んでいたり、その勢いで射的に挑んでみたり。そういう人たちも見ていて面白かったけれど、なにより気になったのは赤ん坊を抱えた女の人や、煙草をふかし木に背を預ける男の人。その時は分からなかったけれど、きっと、何かあったんだと思う。それは私の知らないことで、けれどきっと、大事なことだ。
 そのときは、気付きはしなかったけれど。
「月夜ー、飴細工食わないかー?」
「なんかマニアックな動物しばりだよー!」
「あ、うんー」
 すぐに興味をなくしてしまい、私は月夜たちの待つ夜店へと走っていく。棚に並べられているのは見たことの無い形だ。……オオサンショウウオだのネペンテス・カンパニュラータだのヒトガタだの、そんな名札が掲げてあることには触れないほうがいいんだろうか。
「つっきーはどれ選ぶー? あたしオオサンショウウオ!」
「……これは実在する生物なのか……? 俺はオオフトトゲヒトデ」
「わ、私はこれで……」
 そう言って、人の輪郭をぬるりとさせたようなものを指差す。値段は四百円とサイズの割りに高かったけれど、透き通ったそれは欲しくなってしまうものだった。
 飴で作られたお菓子は、舐めれば消えてしまう、落としてしまえば蟻の餌になってしまうようなものなのに、どうしてこんなに綺麗なのかとつい考えてしまう。
 細い竹串を手にとって舌で表面を舐めた。色のついた電球からの光が入り、虹に似たものに見える。目を細め、それが一体何なのかを確かめてみようとして、
「ね、つっきー? お土産は何にしよう?」
 その声に思いを断ち切られ、現実に戻った。
「そ、そうだね、どれがいい、かな……」
 ぶつ切りになった言葉を返す。
 縁日をひとしきり遊んだら、公園に行こうと考えていた。今日は花火がある。それを公園で見ようと考えていたのだ。
 たこ焼きなんかは冷めてしまうから後で買うにしても、飴なら、今買ってもいいと思う。
「……じゃあ、これ……かな」
 指差したのは、百合を花びらの途中で切断したような形。半ばで少し括れて、口は少し広い。葉の先から伸び、先にも葉がある不思議な花だった。
「お、嬢ちゃんお目が高いねぇ。それは新作でよ、嬢ちゃんが初めてのお客さんだ、サービスしとくよ」
 そう言われて、示された額は四百円。他の商品より一回り高くて、だからそれはお得だったんだけれど、そのせいで買うしかなくなってしまった。そんなつもりは、別に無かったのだけれど。仕方なく私が支払った。
「おっちゃん、これ何ー?」
「おうよ、これはネペンテス・カンパニュラータってな、ネペンテスってのはウツボカヅラだ。分かるか? ウツボカヅラ」
 食虫植物だった。
「火災で絶滅したと思われてたんだけど、愛好家が保存したりして現存してる植物なんだよ」
「へぇー。ちなみにカンパニューラはなんて意味? 宮沢賢治?」
「詳しくは知らないんだけどな、イタリア語か何かで釣鐘って意味らしい。人名でもあるけどな」
 鐘の音は、この街では聞こえないけれど。テレビで聞くその音は、誰かの声に似ていた気がする。
「土産だろ、包んでやるからちょっと待てな」
 手早く包み、細いリボンで止めてくれる。
「さ、次行くよ次ー! 水風船に突撃だぁー!!」
 叫び、真昼が走り去る。翔太朗はそれを追って、私は後からついていく。振り返ればおじさんが手を振っていて、小さく手を振り返し、私は人ごみの中に飲まれていった。
 そういえば、この夜店がここにあるのだってきっと最後だったのだろう。大人たちが沢山居たわけだ。どうしようもなく終っていくものは、きっと、心の片隅なんていわず、心の半ばを越えた先にまで満ち、根元まで染み、消えてくれないものなのだろう。持て余し、また、諦めた目でそれを見詰めるのだ。
 思い出の中の私が、振り向いた気がした。
 その視界は、人ごみで遮られてしまっているけれど。



「……迷った……?」
 そう広くないはずなのに。
 祭の会場は境内と、階段下の森を囲む道、あとはその道の延長線上にちらほらと。そんな狭い場所なのに、いつの間にか真昼たちを見失っていた。手にはさっきの水飴、それと袋に入ったわたあめがある。自分用には杏飴。たこ焼きなんかは真昼が持っていて、私が持つのは見事に飴ばかりだった。
 知り合いもそう多くない――多分、この祭のためにどこか遠いところから帰って来た人たちなのだ。田舎の祭だからか、親達も放任してくれている。親達はみな、どこかからここまで流れてきた人だから。
 どうしようかと、考えてみる。
 探すのはそう難しくないはずだ――けれど、人ごみはそんなに好きではない。例年ならともかく、今年は余計に。
 なら、先に公園へ行ってもいいんじゃないんだろうか。真昼たちもそのうち来るだろうし、下手に探してすれ違うよりずっといい案に思えた。公園への入り口、森に空いた獣道は幸い屋台に隠れる事無く、お好み焼きとさかなすくいとの間にあった。
 行き交う人々の中、真昼たちを探しながら、その隙間に滑り込んだ。
 ソースと甘いクリーム、それに人の匂いの混じる縁日の空気が徐々に途切れ、次第に森が深くなっていく。荷物を左手で持ち、右手で枝を避けた。その度に緑と土、それに腐葉土や苔があることを知る。
 小柄な身体に道は遠く、けれど枝を抜けることには向いていた。運動は得意ではなくても、ここを通る事だけは慣れていた。
 気付く。
 公園は青白く、原色の動物達は優しい色彩でそこにある。月が出ていたのだ。満月より少し欠けた、歪な丸い形。
 それを見上げている人が居た。
 白い、とただ思う。
 薄手の柔らかなカッターシャツ。手首まで隠すように長かった。パンツも同じように長く、靴を履かない足を守るようで。
 けれど布では隠せない程にその肌は白く。
 土や苔の汚れを消してしまうほどにその髪は白かった。
 整えられてもいない、長さのまばらな髪。服のサイズも合っていない。格好のいい靴も無く、体格は小さく、袖口から見える指はとても細くて。
 けれどそれは見知った指だ。見知った人だ。初めて会うはずなのに、どうしようもなく知っている人。
 その人が空を見上げる姿を、どうしようもなく、美しいと思う。人を思う種類の美しさではなく、絵画や、物語を見て思う美しさ。
 彼がこちらに振り向くのを見て、私もまた、その絵の中に取り込まれる気がした――。
 逃げた。
 ……逃げるのかよ!
 慌てて追った。入り口のバーをすり抜け、遊具の隣を走り、砂を踏む。
 人影はなんだか蛇行して走り、所々でよろけ、小屋にぶつかりかけながら森へと入っていく。木の葉の揺れる音が聞こえる頃には私が小屋の前にいた。聞こえた金属音は鍵を閉める音だろうか。その後は木を打つ音とは違う、石か何かに人がぶつかる音で。
「やぁ、月夜。もう来たんだ、そろそろ花火なのかな」
 まだ誤魔化そうとしている。
「……さっきの、ヤマナイ?」
「何のことかな、僕にはさっぱり……」
「さっきのってヤマナイだよね?」
「……うん……」
 誤魔化せると、思っているんだろうか。
「……あの、二人には秘密にしてくれる?」
 それはその時の私にとって、世界の誰にも秘密だと言われているようなものだった。けれど、それでも、私は。
「分かった」
 たった一つの感情で、絶対の約束を口にした。
「絶対だよ?」
「ん、絶対」
 真昼たちの足音が聞こえる。なのに声は聞こえない。振り向いたら走りながら口を動かす二人の姿が見えたことだろう。
 もう少し、待って欲しかった。
 秘密が出来た時間を、もう少しだけ大切にしたかった。
 真昼が追いついて肩を抱いた。翔太朗は一歩手前で立ち止まる。
 ――きっと。
 この瞬間に私は、彼に恋したのだ。



 そんな、そんな古い瞬間を思い出して。
 彼に、会いに行こうと決めた。
 終わりの鐘に耳を貸さずに。






 はいなんか最終回フラグたちましたー。
 えー、今回は馬鹿です。なんか馬鹿です。て言うかこの小説から馬鹿を抜いたらあとは背景描写と心理描写しかのこりません。基本馬鹿ばっかです。
さーて今日中に出来るかなー無理だ。