全ての話は置いといて――というか、置いておかないとまあ結構辛いのです、案外。

 さて。
 1+1=5
 この数式を正しいと思う人は、まあこのページを読むような人の中には居ないでしょう。要するにどんな人間でもこの式は間違っていると意識するという事です。
 じゃあなんでこの数式が間違っていると判断するのか?
 それは1が『1』という概念、+が『+』という概念、=が『=』という概念で、5が『5』という概念をそれぞれ有している、そう貴方が判断しているからです。
『1』という概念は倍にすれば2になり、逆に考えれば1という数字は『1』という概念しか無いという事です。
 1。口に出せば『1』と『位置』が混合します。1を口に出したとき、もしも最後に何か『いち』の後に続く言葉が連想されるような仕草をすれば相手には『イチゴ』や『一時』、『一護』を連想させたかもしれません。平面上に1と書いたのなら、それを読んだ別の誰かは1を『1』では無く何かの書き損じや、落書きの一部、数字の7に見間違えるかもしれません。つまり論理とは、人と人の間で食い違い、混乱し混同され間違われる可能性が大いにあるのです。
 話を数式に戻しましょう。
 もし貴方以外の誰か――いや貴方以外の全てが、『1+1=5は正しい!』と、こう叫んだとしましょう。『皆何言ってんの?』と貴方は考えるでしょうが、人なんて曖昧な物で、『あっ、ヤベ、オレ間違っちゃってる?』とか考え始めるでしょう。しかし、貴方の常識では1+1=5は間違った数式です。という事は、自分の常識、つまり概念を疑います。例えば、5は『2』という概念ではないのか? 1とは『2,5』という概念を持つのではないのか? そういった疑問をまず持つはずです。そうやって概念とは移り変わります。
 では次の命題。人間とは何故人間なのか?
 この命題に対する答えは、『人間は人間だから人間である』というそれだけで十分だと自分なんかは考える訳ですが、これは論理としては成り立っていても答えとしては成り立っていません。
 例えばの話。
 A君が大事にしている美少女フィギュアをB君が壊ししまいました。工場の量産品、定価二千九百八十円、全長約三十二センチメートル。B君は言いました。『このフィギュアは僕の大切な人なんだ! 他人が居るときは何も喋ってくれないけど、二人きりなら色々話してくれたんだ! 人間なんだ! だからお前は殺人犯なんだよおぉぉあおォォォアkljf;rbmzjs!!!!!!』
 これで殺人罪になってたらシャレになりません。その為に法的な人間の解釈というものがあります。あった気がします。無いかもしれません。いや無いか。うん無いな。まあしかしこの場合、裁判官は美少女フィギュアを人間だと認めないためこれは殺人罪にはなりません。
 …………普通なら。
 しかし最高裁の裁判官全15名が全て狂って、尚且つ議会が弾劾裁判所を設けず、最高裁判所長官だったか誰だったかが国民審査を通った場合、マジにこの『美少女フィギュア殺人事件』が成立してしまいます。もちろんありえません、ありえませんが、可能性として無くは無いのです。価値観は変動制を採用しています。
 そんな世の中になるのなら、テレビの修理に失敗してしまった電気屋さんまでもが殺人罪に問われかねないのです。冗談抜きに。冗談ですが。
 しかし、どこまで人間と認定するのか? というのはそれなりに昔から論議が起こっていました。胎児はどの段階から人間になるのか、とか。そのへんの定義は授業で習ったのですが面倒なので省略します。決して授業内容を覚えて無いとか、そんなんじゃないです。ええ、そんなんじゃないですとも。
 話を戻します。
 人間が何で人間なのか。
 喋ったら人間ですか? じゃあ猫が喋り始めたらどうする?
 道具を作る道具を作ったら人間ですか? チンパンジーはもう少し進化すれば出来そうですよね。
 社会を持ったら人間ですか? そんなもの、アリだって昔からやってます。
 人の遺伝子を持っていたら人間ですか? 遺伝病は? 先天的疾患は?
 …………と、このように、論理とは疑えばキリがありません。
 何故なら、論理というモノ自体がどうとでも疑えてどうとでも信じられるからです。
 人が人になり始めたそのきっかけは、言葉を得たからだと自分は定義します。
 しかし、言葉がどんなものかと聴かれればその定義は怪しい。というか、言葉は仮定するものであり、本当の意味での定義はイデア界にしか存在し得ないのでしょう。これもまた仮定ですが。そして、定義が行われない時、言葉から作られる論理等全てのモノがその不定形さを顕わにします。それこそが人が言葉を知る前、感情で物事を判断する動物だった頃の世界です。境目が無い――とは言いません。本能が有る以上、食べれる食べれない、危険安全の区別は確実にあった筈です。しかし今の世の中に比べたら確実に境は曖昧になっていたのでしょう。まあ、生物――生きようという本能、性質を持ったものがあったら、境は確実に作られるんでしょうけれども。
 この世の全ては疑い得るものです。
 懐疑主義――でしたか。あんまりそこらへんは詳しくないのですが、というかむしろ全くの無知と言っていいくらいなのですが、さておき、疑えば物事にキリがありません。
 例えば、自分は小説が好きです。ここに『なんで小説が好きなのか』という問いを加えます。コレに対する答えはいくらでもありますが、その答えに対してまた質問……『なんで○○なんですか?』という風に問いを続ければいつか破綻してしまいます。試しに、普段思っていることを一つ取り上げて、それに『何故』を加え続けてみれば分かります。そして、同じ答えが出たときに言われる言葉は一つです。『何故答えられないんですか』。これには答えを出さないほうが賢明だと思います。さておき。
 思考を読み解いていくと、いずれは破綻します。答えが出ないのではなく、答えが出てしまうのが破綻です。ここらへんはまぁぶっちゃけどうでもいいんですが。
 というかそろそろ自分が破綻し始めました。
 というわけでまた一旦休憩入ります。二回目。